復古神道(古道学)の大成者
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
平田篤胤は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者であり、国学の四大人のひとりです。
また、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという復古神道の大成者として知られています。
平田篤胤について調べてみました。
平田篤胤を九星気学でみると?
■平田篤胤(8-4-9)
平田篤胤は、1776年10月6日生まれ。
本命星:八白土星
月命星:四緑木星
傾斜宮:九紫火星
平田篤胤は、月命星の四緑木星から、傾斜宮の九紫火星、本命星の八白土星へとエネルギーが流れる相生の関係です。
八白土星は、冷静沈着で頑固一徹な星であり、プライドと努力によって道を切り開きますが、人間関係においては閉鎖的なタイプです。
四緑木星は風のように、どこにでも入り込むコミュニケーション能力をあらわし、その結果、信頼を勝ち得るという星なのですが、人を信じすぎてしまう善良さがあって、だまされやすい傾向があります。
九紫火星は美的センスやアイデア豊富な性質を持っていますが、移り気で気分に起伏があります。
この星回りは、理性で考えたことは行動を制限してしまいますが、本音で納得していることは行動を応援していると言い換えることができます。
また、思いつきで行動する傾向があって、本来持っているはずのコミュニケーション能力を十分に発揮できていないと言えそうです。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【八白土星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
平田篤胤の運気を九星気学でみると?
■1803年 本居宣長と出会う
1803年は八白土星中宮年で、花が咲くときです。
八白土星の定位には二黒土星が回座し、妻・受け身の暗示があります。
平田篤胤は、妻の綾瀬が求めてきた、本居宣長の本を読んで、国学に目覚めます。
また、処女作『呵妄書』を著します。
■1806年 私塾をはじめる
1806年は五黄土星中宮年で、八白土星は定位に戻って北東にあり、変化変動です。
定位に戻ったときは、新しいステージに移行するときです。
平田篤胤は、私塾をはじめます。
門人は、はじめ3人でしたが、最後には553人に達したそうです。
■1812年 『霊能真柱(たまのみはしら)』
1812年は八白土星中宮年で、花が咲くときです。
八白土星の定位には二黒土星が回座し、妻・受け身の暗示があります。
平田篤胤は、愛妻を亡くし、独自の幽冥界を論じた『霊能真柱(たまのみはしら)』を書き上げます。
また、同じ頃に『古史伝』をまとめはじめます。
■1820年 天狗小僧寅吉
1820年は九紫火星中宮年で、八白土星は東南にあり、運気は旺盛です。
八白土星の定位には三碧木星が回座し、開拓・奮起の暗示があります。
平田篤胤は、江戸で天狗小僧寅吉があらわれたことを知り、この寅吉を養子として迎えます。
■1822年 『仙境異聞』
1822年は七赤金星中宮年で、八白土星は北西にあり、実をつけるときです。
八白土星の定位には一白水星が回座し、困難な状況に陥る暗示があります。
平田篤胤は、天狗小僧寅吉から聞き出した幽冥界の様子を、『仙境異聞』として出版します。
■1843年 死去
1843年は四緑木星中宮年で、八白土星は南にあり、「離」の作用が働くときです。
八白土星の定位には七赤金星が回座しているので、多くの人が葬儀に集まったというのも頷けます。
平田篤胤は、『古史伝』などの著作は未完のままに亡くなります。
平田篤胤を宿曜占星術でみると?
■平田篤胤【星宿】
宿曜占星術では、平田篤胤は星宿の生まれです。
星宿は、負けず嫌いで屈服せず、泣き寝入りもしない、反骨精神も旺盛な本命宿です。
星宿さんは、世間の常識やしきたりにはあまりこだわらず、虚飾を嫌い、徹底した自己流を貫く人が多いのですが、しっかりと計算はしています。
また、信心深く、信仰心が成功する原動力となる人も少なくありません。
平田篤胤は、日曜生まれの星宿さんなので、気が強く、思慮が浅いタイプのようです。
後先の考えなく、人の言葉尻をとらえて批判したり、自分に自信がなくなると、人のアラ探しをしたりするようです。
星宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「星宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」を読みになってください。
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