明智光秀の娘を正室にした細川忠興
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
『麒麟がくる』が6月中旬で放送休止になりますね。
再開は8月以降だそうです。
幸いなことに、全44話放送、越年されそうで、『麒麟がくる』ファンとしては、ひと安心です。
さて、『麒麟がくる』に登場するであろう関係者をいろいろと調べていますが、今回は、明智光秀の娘が嫁いだ細川忠興について調べてみようと思います。
細川忠興の性格を九星気学で占ってみると?
■細川忠興(5-2-8)
細川忠興は、永禄6年11月13日(1563年11月28日)生まれ。
本命星:五黄土星
月命星:二黒土星
傾斜宮:八白土星
細川忠興は、本命星の五黄土星、月命星の二黒土星、傾斜宮の八白土星の3つが土に属するので、他人も自分と同じように考えているはず、という思い込みを持っている人が多い星まわりです。
土の性の人は、まじめにコツコツと努力し、大きな成果を得られる反面、要領よく立ち回る人や一攫千金を狙うような人を下に見る傾向があります。
五黄土星は帝王の星であり、周囲の人に強い影響力を持っていますが、自分の運勢も極端になりやすい傾向があります。
明智光秀の娘(玉子・ガラシャ)を嫁にしたことから、本能寺の変ののちに光秀から味方をするように誘われますが、これを拒否し、のちの豊臣秀吉に徴用されます。
ここで、判断を間違えていたら、細川家は残っていなかったかもしれません。
二黒土星はまじめで勤勉な星ですが、全般的に受け身であり、誰かの下にあって、生来の良さが発揮されます。
八白土星は山であり、重なった土をあらわし、プライドの高い努力家の性質をもっており、困難を突破することには滅法強いのです。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【五黄土星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
細川忠興の運気を九星気学でみてみると?
■1577年 信貴山城の戦い
1577年は九紫火星中宮年で、五黄土星は北にあり、本厄です。
五黄土星の定位には九紫火星が回座し、注目をあつめる暗示があります。
体調面で不安がありますが、目立つときといえます。
細川忠興は、松永久秀討伐戦である信貴山城の戦いにおいて、明智光秀とともに片岡城を落とします。
■1578年 明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚
1578年は八白土星中宮年で、五黄土星は南西にあり後厄、歳破がついています。
五黄土星の定位には八白土星が回座し、変化変動の暗示があります。
細川忠興は、織田信長の仲介により、明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚します。
また、織田信忠より偏諱を受け、忠興と名乗るようになります。
織田信長・信忠親子から、このとき、大きな期待と信頼を得ていたことがうかがえます。
■1581年 京都御馬揃え
1581年は五黄土星中宮年で、花が咲くときです。
定位に戻ったときは、新しいステージへ移行するとき。
細川忠興は、京都御馬揃えに参加。
このとき、織田信長が着用した「蜀紅の錦の小袖」は、細川忠興が信長に献上したものだといわれています。
■1582年 本能寺の変
1582年は四緑木星中宮年で、五黄土星は北西にあり、実をつけるときです。
五黄土星の定位には四緑木星が回座し、名前が知れ渡る暗示があります。
細川藤孝・忠興父子は、明智光秀に味方するように誘われますが、織田信長の喪に服す事を表明して剃髪し、これを拒否します。
また、細川忠興の妻・玉子を丹後国に幽閉しました。
こののち、細川忠興は、山崎の戦いで明智光秀に味方した一色満信を殺害し、豊臣秀吉から丹後全域の領有を許されます。
■1585年 七将に数えられる
1585年は一白水星中宮年で、五黄土星は南にあり、前厄です。
前厄のときは陽の当たるときであり、注目されるとき。
しかし、五黄土星の定位には一白水星が回座し、困難な状況に陥る暗示があります。
細川忠興は、豊臣秀吉から羽柴姓を与えられ、七将に数えられます。
■1591年 千利休切腹
1591年は四緑木星中宮年で、五黄土星は北西にあり、実をつけるときです。
五黄土星の定位には四緑木星が回座し、広く知られる暗示があります。
細川忠興は文化人であり、千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられています。
千利休が、豊臣秀吉によって切腹させられたことが、のちの関ヶ原の戦いで、いち早く徳川家康を支持したことに影響しているかもしれません。
■1599年 石田三成襲撃
1599年は五黄土星中宮年で、花が咲くときです。
定位に戻ったときは、新しいステージに移行するときです。
細川忠興は、15898年に豊臣秀吉が死去すると、石田三成と対立します。
そして、加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に、石田三成を襲撃します。
これによるものかどうかはわかりませんが、徳川家康の推挙によって、丹後12万石に豊後国杵築6万石が加増されます。
■1600年 関ヶ原の戦い
1600年は四緑木星中宮年で、五黄土星は北西にあり、実をつけるときです。
五黄土星の定位には四緑木星が回座し、広く知られる暗示があります。
細川忠興は、但馬10万石を与えるという徳川家康の東軍につくことをいち早く表明し、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと考えられています。
しかし、この判断によって、妻・ガラシャは自害することになってしまいました。
関ヶ原の戦いの論功行賞によって、細川忠興は、丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増されます。
■1615年 大阪夏の陣
1615年は七赤金星中宮年で、五黄土星は東に出て、運気は上昇に転じます。
五黄土星の定位には七赤金星が回座し、喜びごとの暗示があります。
細川忠興は、大坂夏の陣に参戦し、戦後、徳川家康から松平の苗字の下賜されますが、これを辞退します。
また、病気のため、1620年には三男の忠利に家督を譲って隠居しています。
■1645年 死去
1645年は四緑木星中宮年で、五黄土星は北西にあり、実をつけるときです。
五黄土星の定位には四緑木星が回座し、「調う(ととのう)」の暗示があります。
細川忠興の運勢は、四緑木星中宮年のときに、大きな転機を迎えています。
本能寺の変、千利休切腹、関ヶ原の戦い、どれも四緑木星中宮年でした。
同じ九星盤のときに、病気で死去。
享年83歳。
細川忠興を宿曜占星術で占ってみると?
■細川忠興【参宿】
宿曜占星術では、細川忠興は参宿の生まれです。
参宿は、チャレンジャーが多い本命宿です。
他の宿の人ができないような、困難でハードルの高い仕事をやりとげるエネルギーを持っており、精力的に東奔西走して、よく働きます。
また、参宿さんは、周囲を気にせず、誰にでも接近し、親しくなってしまうようなことが自然に行えます。
細川忠興が、明智光秀を拒否して、豊臣秀吉に連絡をとったり、秀吉がなくなると徳川家康を支持したりと、次の権力者を嗅ぎ分けて行動しているのは、五黄土星の運気の強さもさることながら、参宿さんの性質が大きく貢献していると思われます。
参宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「参宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」をお読みになってください。
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