博多の三傑と呼ばれる博多商人であり茶人
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
神屋宗湛は、古田織部を指して「ヘウゲモノ也」と評した人物です。
『宗湛日記』は、豊臣政権の内部を知る貴重な史料であり、四大茶会記のひとつです。
神屋宗湛について調べてみました。
神屋宗湛を九星気学で占ってみると?
■神屋宗湛(8-2-2)
神屋宗湛は、天文20年1月1日(1551年2月6日)生まれ。
本命星:八白土星
月命星:二黒土星
傾斜宮:二黒土星
神屋宗湛は、本命星の八白土星、月命星と傾斜宮の二黒土星は、土の性にすべて属している土の人です。
八白土星は山であり、積み重なった土をあらわします。
そこから、つながりや努力、高い自尊心を意味し、冷静沈着で、自分の信じる道を突き進むという性質となってあらわれます。
自らの目標を達成するためには、積極的に周囲の人の力を利用します。
二黒土星は、まじめで勤勉であり、補佐的なポジションで成功しやすい資質を持っています。
土の人はまじめな努力家ですから、ズルい人や不真面目な人を蔑む傾向が強いということも。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【八白土星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
神屋宗湛の運気を九星気学でみてみると
■1582年 織田信長に謁見
1582年は四緑木星中宮年で、八白土星は南にあり、前厄です。
前厄のときは陽の当たるときであり、注目をあつめるとき。
八白土星の定位には七赤金星が回座し、人間関係の拡大と喜びごとの暗示があります。
神屋宗湛は、島井宗室と共に上洛し、織田信長に安土城において謁見します。
その後、本能寺で再び織田信長と謁見し、そのまま本能寺に宿泊して本能寺の変に巻き込まれてしまいます。
本能寺から脱出する際、神屋宗湛は信長愛蔵の牧谿・『遠浦帰帆図』を、島井宗室は空海直筆の『千字文』を持ち出しています。
■1586年 出家
1586年は九紫火星中宮年で、八白土星は東南にあり、運気は旺盛ですが、歳破がついています。
八白土星の定位には三碧木星が回座し、開拓・奮起の暗示があります。
神屋宗湛は、大徳寺で出家し、宗湛と号します。
このとき、堺の大商人・津田宗及らと新興を深めたようです。
■1587年 豊臣秀吉に謁見
1587年は八白土星中宮年で、花が咲くときです。
八白土星の定位には二黒土星が回座し、受け身の暗示があります。
神屋宗湛は、豊臣秀吉に謁見すると気に入られ、博多商人の第一人者としての特権を与えられます。
また、豊臣秀吉の九州平定には、資金面で援助しています。
■1592年 文禄の役
1592年は三碧木星中宮年で、八白土星は北にあり、本厄です。
八白土星の定位には六白金星が回座し、目上のサポートがある暗示があります。
神屋宗湛は、文禄の役(朝鮮出兵)において、後方兵站の補給役を務め、莫大な富を蓄積しました。
本厄のときでも蓄財できるのが、八白土星の強みでしょう。
■1607年 福岡城築城に貢献
1607年は六白金星中宮年で、八白土星は西にあり、収獲のときです。
八白土星の定位には九紫火星が回座し、良くも悪くも注目をあつめる暗示があります。
神屋宗湛は、黒田氏の御用商人となり、黒田長政が福岡城を築城する際には、金銀や米、渡来品などを献上し、貢献しています。
■1635年 死去
1635年は五黄土星中宮年で、八白土星は定位に戻って北東にあり、変化変動です。
定位に戻ったときは、新しいステージに移行するとき。
神屋宗湛は、病死します。
神屋宗湛を宿曜占星術で占ってみると?
■神屋宗湛【室宿】
宿曜占星術では、神屋宗湛は室宿の生まれです。
室宿は、運気が強く、物質的にも恵まれる本命宿です。
室宿さんは、金運があり、商売上手。
しかも、多くの人をひきつける交際上手でもあります。
また、室宿さんは、策略を弄することも巧みで素早いので、人間関係に損得勘定が入りやすい傾向があります。
室宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「室宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」をお読みになってください。
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