徳川幕府を最後まで支持した最後の会津藩主
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
松平容保は、京都守護職として、幕末の動乱期を新選組、徳川幕府とともに乗り切ってきた人物です。
「ならぬことはならぬものです」で有名な、什の掟によって、子どもの頃から教育されたという会津藩は、ある意味、藩祖・保科正之の徳川家に対する忠節という呪縛から逃れられなかったようにも見えます。
名君を藩祖にもった悲劇だったのかもしれません。
松平容保について調べてみました。
松平容保を九星気学で占ってみると?
■松平容保(2-2-6)
松平容保は、天保6年12月29日(1836年2月15日)生まれ。
本命星:二黒土星
月命星:二黒土星
傾斜宮:六白金星
松平容保は、本命星と月命星が二黒土星ですから、行動と気持ちが一致しています。
二黒土星は畑の土であり、植物を育てるように人も育てます。
表面的には温和であり、人のために奉仕する資質を持っていますが、利益のためには苦労を惜しまないという欲深の一面ももっています。
しかし、全般的に受け身であり、自分が先頭に立つよりも、サポート役・ナンバー2で成功しやすい傾向があります。
六白金星は理想主義者であり、気位が高く、負けず嫌いです。
独立心と上昇志向が強いく、人を犠牲にしても高位に達しようとするところがあるため、自信過剰で独断専行というイメージがつきやすいと言えます。
傾斜宮の六白金星に対しては、本命星と月命星の二黒土星がエネルギーを与える相生の関係なので、本音の部分では、自分に納得している、つまり思い込みも激しいと言えそうです。
理想主義者でこだわりの六白金星を、まじめに努力する二黒土星が後押ししているかのような星回りです。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【二黒土星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
松平容保の運気を九星気学でみてみると
■1846年 会津藩第8代藩主・容敬の養子となる
1846年は一白水星中宮年で、二黒土星は北西にあり、実をつけるときです。
二黒土星の定位には七赤金星が回座し、人間関係の拡大と喜びごとの暗示があります。
松平容保は、高須藩主・松平義建の六男として誕生しますが、会津藩第8代藩主・容敬の養子となります。
■1852年 会津藩主となる
1852年は四緑木星中宮年で、二黒土星は東に出て、運気は上昇に転じます。
二黒土星の定位には一白水星が回座し、困難な状況に陥る暗示があります。
松平容保は、会津藩主となります。
■1860年 桜田門外の変
1860年は五黄土星中宮年で、二黒土星は定位にもどって南西にあり、後厄です。
定位に戻ったときは、新しいステージに移行するときです。
松平容保は、桜田門外の変が起こる原因ともなった、孝明天皇から水戸藩にくだされた戊午の密勅の返還問題に取組み、一滴の血も流さずに返還させることに成功します。
■1862年 京都守護職
1862年は三碧木星中宮年で、二黒土星は東南にあり、運気は旺盛ですが、歳破がついています。
二黒土星の定位には九紫火星が回座し、良くも悪くも注目される暗示があります。
松平容保は、健康問題を理由に再三固辞していた京都守護職に就任します。
会津藩兵を率いて上洛すると、都人から好感と評価を得ます。
■1863年 新選組
1863年は二黒土星中宮年で、花が咲くときです。
二黒土星の定位には八白土星が回座し、変化変動の暗示があります。
松平容保は、幕府から浪士組(のちの新選組)の差配を任され、「会津藩お預かり」とすることになります。
■1868年 会津・桑名を朝敵とする勅命
1868 年は六白金星中宮年で、二黒土星は北にあり、本厄です。
二黒土星の定位には三碧木星が回座し、開拓・奮起の暗示があります。
松平容保は、鳥羽・伏見の戦いでは家臣をおいて大阪脱出の責任を取るため、藩主を辞任し、家督を養子の喜徳(慶喜の実弟)に譲ります。
その後、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、徳川慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡され、会津にもどって謹慎します。
しかし、会津戦争では会津藩が降伏し、鶴ヶ城を開城することになります。
■1871年 斗南藩に預け替え
1871年は三碧木星中宮年で、二黒土星は東南にあり、運気は旺盛です。
二黒土星の定位には九紫火星が回座し、良くも悪くも注目される暗示があります。
松田容保は、会津戦争以後、謹慎処分が続いていましたが、実子の松平容大が斗南藩知事に任じられ、松平容保は、斗南藩に預け替えとなります。
■1880年 日光東照宮宮司
1880年は三碧木星中宮年で、二黒土星は東南にあり、運気は旺盛です。
二黒土星の定位には九紫火星が回座し、良くも悪くも注目される暗示があります。
松田容保は、日光東照宮の宮司に任じられ、上野東照宮祠官を兼務します。
また、日光の文化財保全を目的とした民間結社・保晃会会長に就任し、日光東照宮の修復事業に取り組みます。
東照宮保全事業は、その後、大正・昭和・平成へと引き継がれ、社殿修理がおこなわれ、結果として世界遺産になったといえます。
■1893年12月5日 死去
松平容保は、1893年12月5日に肺炎で亡くなります。
この日の九星盤をみてみましょう。
年盤では二黒土星は北東にあり変化変動、そして定位対冲です。
定位対冲のときは、運命の歯車が大きく動くときです。
また二黒土星の定位には五黄土星が回座しているので、自滅の暗示があります。
二黒土星生まれにとっては、最悪の年運といえます。
月盤では、二黒土星は中宮にあり、命厄です。
中宮にあるときは吉凶混合運であり、命に関わるようなことが起こりやすいときといえます。
また、年盤の二黒土星には、月盤の五黄土星が回座しているので、五黄殺です。
ここまでで、松平容保の死は、無理をしてきたことが重なってのものであろうと読み取れます。
日盤では、二黒土星は東にありますが、月盤の二黒土星には、日盤の四禄木星が回座し、遠方の象意があります。
松平容保は、病弱でありながら、徳川家に忠誠を尽くした激動の人生を、遠くに吹き流れる風のように終わらせたようです。
松平容保を宿曜占星術で占ってみると?
■松平容保【危宿】
宿曜占星術では、松平容保は危宿の生まれです。
危宿は、理性よりも感性にまさる傾向があり、感情の起伏が激しい人が多い本命宿です。
創造的な分野、自分の好きな分野では、忍耐力を発揮し、才能も発揮しますが、興味がおもむくままに手を付けていきますが、最後までやり切るということがありません。
また、危宿さんは基本的に受け身の人間関係であり、執着心が乏しく、つなぎとめる努力をしません。
危宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「危宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」をお読みになってください。
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