三嶋暦(みしまれき)とは?
三嶋暦とは、静岡県の三島神社(三嶋大社)へ献上していた暦のことを指します。
京暦に次ぐ古い歴史を持つ暦であり、ひらがなを使った仮名版暦として有名になり、広く普及しました。
江戸時代より前から発行されていた暦としては、京暦、三嶋暦のほかに、大阪暦、丹生暦、南都暦、大宮暦、鹿島暦、会津暦などがありました。
江戸時代の初めごろまで、伊豆国、相模国、関東諸国、甲斐、信濃、駿河、遠江までひろく頒布していました。
江戸時代には、徳川幕府公認の暦となりました。
暦の統一を企図していた?織田信長
戦国時代に、この三嶋暦が歴史の表舞台に登場します。
織田信長は三嶋暦と同じ内容の美濃暦を使用していたのですが、天正10年(1582年)の三嶋暦には閏12月があるのに対し、京暦では、翌年の天正11年正月のあとに閏正月が入ることになっていることに気づきました。
信長は、天正10年1月29日に、安土城に土御門久脩(つちみかどひさなが)と賀茂在昌を呼び寄せ、三嶋暦の作者である筑後法橋も出頭させて、三嶋暦と京暦のどちらが正しいのか、議論しました。
このとき信長は、京暦の天正10年に閏12月を入れるように、近衛前久(このえさきひさ)に要求したようです。
しかし、安土城では三嶋暦と京暦のどちらが正しいのか決着がつかず、2月7日までに、再検討して結果を知らせるように、信長は近衛前久に命じています。
天正10年2月4日には、京都所司代の村井貞勝の屋敷に、近衛前久、高倉永相、中山親綱、勧修寺晴豊、広橋兼勝、曲直瀬道三らが集まり、暦について議論して、京暦が正しいという結論に至りました。
天正10年に閏12月がはいってしまうと、朝廷行事の多い正月が移動することになり、近衛前久ら、公家にとっては大問題でしたので、公家たちの顔を立てた形になったのかもしれません。
陰陽道をつかさどる土御門家と勘解由小路家
土御門久脩(つちみかどひさなが)は、かの安倍晴明につらなる陰陽師の宗家の31代目当主です。
織田信長、豊臣秀吉につかえますが、のちに徳川家康に陰陽道宗家と認められ、公家昵懇衆として家康に仕えることになります。
この土御門家は、明治政府によって廃止されるまで、陰陽師という国家公務員の家筋として尊崇されていたのです。
賀茂在昌は、賀茂氏系勘解由小路家(かでのこうじけ)の最後の当主、勘解由小路在富(かでのこうじあきとみ/かげゆこうじ ありとみ)の嫡男です。
天文道を伝える安倍氏に対し、暦道を伝える賀茂氏は、室町時代以降は勘解由小路家(かでのこうじけ)を名乗りました。
賀茂在昌は、キリスト教の洗礼を受けて西洋天文学を学んでいたといわれており、父・在富がこれに激怒したため賀茂在昌を廃嫡し、弟・在康の子である在種を養子としました。
ところが、天文23年(1554年)10月4日、在富が在種を殺害して逃亡し、最終的には土御門家に陰陽道の諸権利が流れていきました。
賀茂氏は、安倍氏の師匠筋にあたりますが、安倍氏のほうが最後に残ったということになります。
天正10年1月29日の暦の議論の場において、織田信長は、土御門久脩(つちみかどひさなが)と賀茂在昌を呼び寄せていることから、この当時、賀茂在昌は土御門家に仕えていたのか、または織田信長の食客となっていたのだと考えられます。
仮に、賀茂在昌がキリシタンとなって、西洋天文学を学んでいたとすると、織田信長の性格からして、いちおうは罪人である賀茂在昌を保護していた可能性があります。
1582年ユリウス暦からグレゴリオ暦へ 信長が暦の統一に思い立ったワケ
織田信長は、ルイス・フロイスら宣教師を、西洋科学などの情報を得るために利用していたと考えられています。
当時の日本人についてルイス・フロイスは、「キリスト教の教えを信じて学ぶより、新しいまじないの一種としてキリスト教が広まっている」と嘆いています。
賀茂在昌も、日本の暦道を伝える家の嫡男として、西洋の進んだ天文学を学ぶためにキリシタンになった可能性があります。
そんな賀茂在昌を、織田信長が保護していたとしてもおかしくないと思われます。
そして、織田信長が暦に興味をもったきっかけは、もしかするとローマ教皇グレゴリウス13世による、グレゴリオ暦採用の動きを知っていたからなのではないでしょうか。
グレゴリオ暦は、現在、世界中の国々で採用されているカレンダーになります。
これ以前は、ユリウス暦と呼ばれる暦が使用されていましたが、1暦年の日数が少ないために、年々、春分の日がずれてきていて、問題視されていました。
ユリウス暦を何とかしようという動きは、第5ラテラン公会議(1512-1517)において検討されたほどであり、ユリウス暦からグレゴリオ暦へと変わる下地は、100年近く前からあったということになります。
つまり、当時の西洋人にとって、ユリウス暦はいずれ別の暦になることは既定路線であり、織田信長もこのことを知っていたと考えられます。
そして、1582年(天正10年)に、正式にユリウス暦からグレゴリオ暦へと変更されることになりました。
この1582年(天正10年)とは、先に書いた三嶋暦と京暦の食い違い問題が起こった、その年です。
西洋で暦問題が解決した年に、三嶋暦と京暦の食い違い問題が起こったというのは、偶然の一致なのでしょうか?
信長は、以前から西洋の暦事情を知っており、日本国内でも暦の統一が必要だと考えていたため、そのタイミングを図っていたとも考えられるのではないでしょうか。
旧暦と新暦
現在、世界的に使用されているグレゴリオ暦を日本で採用したのは、明治5年のこと。
それまでの暦は太陽太陰暦で、月の動きからつくられた暦を、太陽の動きに合わせて調整したものです。
切り替えにあたって、新しく採用されたグレゴリオ暦を「新暦」、それまで使っていた天保暦を「旧暦」と呼ぶようになりました。
太陽太陰暦には、二十四節気(にじゅうしせっき)が整い、さらに詳しい七十二候(しちじゅうにこう)も含められています。
二十四節気(にじゅうしせっき)とは、立春、立夏といった季節の移り変わりをあらわしたもの。
七十二候(しちじゅうにこう)は、二十四節気をさらに3分割して、細かく季節や自然の移り変わりをとらえたものです。
二十四節気の「気」、七十二候の「候」で、気候という言葉になっています。
九星盤にも登場する吉凶の神々
三嶋暦は、庶民にも読めるひらがなで記した暦ですが、そのなかには、日々の吉凶、方位の吉凶が書き記されていました。
日本において、天文の観察に基づいた暦がつくられるようになるのは、会津藩主の保科正之が、それまで使用されていた宣命暦が正しくないとして、臣下で数学者の安藤市兵衛、島田覚右衛門の二人に銘じて、新たな暦をつくることに着手したことにはじまります。
最終的には、渋川春海(しぶかわはるみ)の登場によって、保科正之の改暦の志は通じ、貞享2年(1685年)に貞享暦が採用されます。
しかし、日本では暦に対して、日時を正しく測ることよりも、毎日の占いとして利用することのほうが重要であったようです。
方位の吉凶をつかさどる八将神とは?
八将神(はっしょうじん)とは、陰陽道の神で、方位の吉凶をつかさどる八神の総称です。
太歳神(たいさいじん)
八将神のなかで、唯一の吉神。
12年で12の方位をめぐり、その年の干支と同じ方位に位置します。
しかし、太歳神のいる方位での、樹木の伐採や草刈りなどにたいしては、凶神となります。
大将軍(だいしょうぐん)
3年間、おなじ方位にいることから「3年ふさがり」の凶神です。
この方位での普請、旅行、移転、土を動かすことは凶。
太陰神(だいおんじん)
太歳神の后の女神で、凶神。
太歳神のふたつ後ろにいつも位置しています。
この方位でのお産、婚姻は凶、それ以外は吉となります。
歳刑神(さいぎょうじん)
殺罰をつかさどる凶神。
この方位での種まき、樹木伐採、土を動かすことは凶。
歳破神(さいはじん)
太歳神の反対側の方位にいる凶神。
この方位での引越し、船に乗ること、婚姻、家の造作は凶。
歳殺神(さいさつじん)
殺伐をつかさどり、万物を滅す凶神。
丑、未、辰、戌の4方位だけをめぐります。
この方位での婚姻は凶。
黄幡神(おうばたじん)
歳殺と同じく、丑、未、辰、戌の4方位だけをめぐる凶神。
土をつかさどるため、この方位で土を動かすことは凶。
ただし、武芸のために弓を射ることは吉。
豹尾神(ひょうびじん)
黄幡神の反対側に位置します。
この方位では家畜を求めてはいけません。
不浄を嫌うため、この方位で大小便は厳禁です。
恵方とは?金神とは?
恵方巻で知られる恵方とは、歳徳神(さいとくじん)という女神で吉神がいる方位のことです。
万事において吉とされ、恵方といわれるようになりました。
一方、金神(こんじん)が位置する方位は、人心が冷酷非道になります。
とくに、歳徳神の反対側に金神があるとき、金神は戦争や災害をつかさどる凶神となります。
少ない年で2方位、多いときは6方位にいて、大金神、巡金神と呼び分けられます。
さらに、土公神(どくじん)は、土をつかさどる神、土用の神です。
春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされ、その場所の土を動かすことは凶となります。
吉方位や凶方位を描いた方位図も!
三嶋暦には、月の大小(大は30日、小は29日)のほかに、八将神や歳徳神、金神などを配置した方位図、二十八宿、十二直、納音(なっちん)など、年・月・日の運勢を占うものが満載されていました。
暦が、農業や商業にとって欠かせない指標であったことは確かですが、庶民にとっては、暦に記された運勢や吉凶こそが重要なものだったことを物語っているようです。
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