
長篠の戦いとは?
長篠の戦い(ながしののたたかい)は、天正3年5月21日(1575年6月29日)に、長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。
設楽原(したらがはら)での決戦は、馬防柵と鉄砲隊で迎え撃つ織田信長・徳川家康連合軍と、襲いかかる武田騎馬軍団という対比でとりあげられ、織田信長の天才ぶりを示す有名な戦いです。
織田信長は、天正元年(1573年)に足利義昭を追放、つづいて浅井・朝倉両氏を滅亡させ、天正2年には長島の一向一揆を殲滅した後の年になります。
武田氏とは、外交上は宥和関係にありましたが、足利義昭が書状を下して信長包囲網を企図したころから関係が悪化していました。

凶方位に移動する武田勝頼の動き
武田勝頼は、天文15年(1546年)生まれの四緑木星です。
長篠の戦いのあった天正3年(1575年)は、二黒土星中宮年です。
四緑木星は西、織田信長(七赤金星)と徳川家康(七赤金星)はともに北にあり、本厄でした。
これだけをみると勝頼のほうが優勢に見えます。
しかし、勝頼が大軍を率いて三河へ侵攻した天正3年4月(1575年5月10日~6月7日)の月盤は八白土星中宮月で、織田信長と徳川家康の本命星である七赤金星は東南にあり、運気が上昇するときです。
武田勝頼の四緑木星は北にあり、月盤では本厄にあたります。
そして、このときの勝頼は医王寺に陣を布きます。
このとき勝頼は、南西(申)の方位に移動しています。
月盤でみると、南西には五黄土星が位置しており、五黄殺という大凶方位です。

吉方位に移動する織田信長
一方の織田信長は、天正3年5月12日(1575年6月19日)に岐阜城を発ち、天正3年5月17日(1575年6月24日)に岡崎城に到着しています。
岐阜城から岡崎城は、東南(巳)の方位になります。
日盤では、東南の方位には八白土星、月盤では六白金星が位置しており、どちらも七赤金星にとっては良い方位です。
しかも、月盤は七赤金星中宮月であり、織田信長と徳川家康にとって思い通りになるという月です。

岡崎城で徳川軍と合流し、決戦地である設楽原に移動したのは翌5月18日(1575年6月25日)のことでした。
岐阜城からみれば設楽原は東南(辰)ですが、岡崎城からみると東(卯)の方位になります。
徳川家康にとって、日盤では八白土星なので吉方位ですが、月盤では五黄土星が位置している大凶の方位でした。

織田・徳川軍が圧勝した長篠の戦い
設楽原での決戦は8時間ほどで決着がつきます。
破れた武田軍と勝頼は、設楽原から北(子)の方位にある武節城へと移動し、その後、北東(丑)の高遠城へと退却していきます。
設楽原での決戦があった日の月盤は、六白金星中宮月で、丑の方位には月破がついています。
この六白中宮月は天正3年6月22日までつづきますから、勝頼が高遠城まで退却するのにかなりの日数がかかったとしても、北東の月破方向に移動したことは間違いないでしょう。
となると、またもや武田勝頼は凶方位に移動したことになります。

「長篠・設楽原の戦い」鉄炮玉の謎を解く | ||||
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北東の方位の方災としては、
- 家運が衰えます。
- 新旧交代から損害を招きます。
- 相続人が役に立たなくなります。
- 親類や縁故のために大損害をこうむります。
- 財産を失います。
- 強欲になります。
- 関節を患います。
- 脊髄を痛めます。
とあります。
また、九紫火星の方位の方災としては、
- 地位・名誉を失います。
- 観察眼、洞察力が鈍ります。
- 交際が華美になり、悪い交友関係が生じます。
- 悪知恵が働きます。
- 警察問題・裁判問題が起きます。
- 文書や印鑑が元となって災いを受けます。
- 眼や脳の病気を患います。
- アルコール中毒になります。
- 生別、死別があります。
- 一家離散します。
などがあり、長篠の戦い以降の武田勝頼の運命をあらわしているかのようです。
死の直前に、またも凶方位に移動する武田勝頼
長篠の戦いで有力武将をうしなった武田軍ですが、天正7年(1579年)には沼田城を陥落させるなど、武田軍の活躍は続いていました。
しかし、織田信忠軍による武田討伐がはじまり、武田勝頼は天正10年3月11日(1582年4月3日)に一族とともに自害し、武田家は滅亡します。
武田勝頼は、織田信忠軍による侵攻に備えて、防御に不利な躑躅ヶ崎(つつじがさき)館から、韮崎の新府城へと移転します。
移転した日は1581年12月24日という記載がありましたので、これを信じると、年盤は五黄土星中宮年、月盤は一白水星中宮月、日盤は八白土星中宮日でした。
躑躅ヶ崎(つつじがさき)館から新府城へは、北西(戌)の方位です。
年盤では、北西(亥)に歳破がついています。

新府城で正月を祝った武田勝頼ですが、織田軍の侵攻の始まりと同じ日に浅間山が噴火。
当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられ、武田軍は大いに動揺しました。
木曾福島城の木曾義昌が織田軍に内通し、その軍勢を導きいれようとしたため、勝頼は木曾征伐に向かいます。
しかし、親戚である穴山梅雪(信君)も裏切り、ついに勝頼は新府城に火をつけて放棄し、小山田氏の居城である岩殿城を目指します。
ところが、小山田氏はすでに信忠軍に内通していることを知り、勝頼は天目山棲雲寺へ向かいます。
新府城を放棄したのは、天正10年3月3日(1582年3月26日)のことです。
新府城から天目山棲雲寺は東(卯)の方位になります。
勝頼が新府城を放棄したこの日の日盤では、東に日破がつき、月盤では東に五黄土星が位置していました。
何度も書きますが、五黄土星は大凶の方位であり、自滅の方位です。

とても死にそうにない武田勝頼の九星盤
武田勝頼が自害したのは、天正10年3月11日(1582年4月3日)です。
この日の年盤は四緑木星中宮年、月盤は六白金星中宮月、日盤は九紫火星中宮日でした。
勝頼の本命星は四緑木星ですから、天正10年は花が咲くときでした。
慢心せず、現状維持を図っていれば何事もなかったはずです。
月盤でみても、四緑木星は東に位置しており芽が出るとき。
日盤では四緑木星は南にあります。
南は「離」の作用がありますが、陽のあたるときでもあります。
これらを見ると、武田勝頼は天正10年に死んでしまうような運気には見えません。
勝頼の運気を下げたのは、やはり凶方位への移動が原因なのではないでしょうか。
とくに、新府城に火をつけて捨ててしまった天正10年3月3日に向かった方位が五黄殺だったことが、とくに影響しているものと考えます。

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