織田信長が世に知られることになった桶狭間の戦い
桶狭間の戦いは、織田信長26歳のときに、今川義元(41歳)を破ったことで知られる、織田信長にとってエポックメーキングとなった戦いです。
桶狭間の戦いは1560年6月12日(永禄3年5月19日)に雌雄を決した戦いですが、今川義元が氏真に家督を譲ったことに端を発していると見られています。
今川義元の野望
今川義元は、家督を息子・氏真に譲り、自らは三河支配を進めようとしていたと考えられています。
鳴海城、大高城を救い、清州城を攻略して尾張を領有しようとしていました。
永禄3年5月18日(1560年6月11日)、今川軍は尾張・沓掛城に入ります。
先鋒として、朝比奈泰朝と松平元康(のちの徳川家康)が出陣し、朝比奈泰朝は鷲津砦を攻撃、松平元康は大高城へ秤量を入れて丸根砦を攻撃しました。
桶狭間の戦いの経過
永禄3年5月18日 (1560年6月11日)
|
今川軍、尾張・沓掛城に入る。 織田信長は、清州城に集まる重心らと雑談ですませ、寝所に入る。
|
永禄3年5月19日 (1560年6月12日)
|
今川義元が沓掛城を出発し、「おけはざま山」と呼ばれる小高い丘に本陣を布く。 沓掛城から国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地へ移動(南西、申の方位)
|
永禄3年5月19日 (1560年6月12日) 早朝
|
早朝、信長のもとに鷲津・丸根砦から敵の攻撃を知らせる注進があり、謡曲「敦盛」を舞い、ほら貝を吹かせ具足を身に着けると、立ちながら湯漬けをかきこみ、馬上の人となる。 5人の小姓と雑兵のみで出馬する。
|
永禄3年5月19日 (1560年6月12日) 辰の刻(8時ごろ)
|
鷲津・丸根砦が落ちたことを、東方にあがる煙で知った信長は、善照寺砦に入り、後続を待つ。 清州城から善照寺砦へ移動(南東、巳の方位)
|
永禄3年5月19日 (1560年6月12日) 白昼
|
善照寺砦に2,000近くの兵が集結し、信長軍は中島砦に移動し、中島砦から今川軍の前衛に挑もうとする。 善照寺砦から中島砦に移動(南西、未の方位)
|
信長軍は、馬廻を先頭に今川軍に向かって出撃し、今川軍を追い返す。 山のふもとまで進んだところで急に天候が変わり、「雨が石氷を投げ打つように敵の顔に打ち付ける」ような大雨となった。 沓掛峠のクスノキの巨木が、風雨のために東に向かって倒れた。 信長軍は平地を東に向かって突き進んだ。
|
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書) | ||||
|
織田信長を九星気学で見てみると・・・
織田信長の誕生日は、ルイス・フロイスの日記から推測されている天文3年5月12日(1534年6月23日)が有力なので、この日付で本命星と月命星を出すと、
本命星:七赤金星
月命星:四緑木星
となります。
七赤金星はお金に関係のある星で、四緑木星は風や樹木をあらわします。
信長には、行動することで、悩みを吹っ切るようなところがあったようです。
信長公記などによると、桶狭間前夜に重心らと雑談で済ませていますが、このときすでに出撃の覚悟をしていたとみられます。
ドラマや映画などでは、重心らが強く籠城戦を主張したらしいですが、信長はこれを受け入れていません。
信長が籠城を拒む理由として、
- 清州城は五条川を堀代わりにしただけの平城で、防御力は高くないこと。むしろ清州城は、水陸両面の交通の要衝であり、軍事拠点は台地上にある那古野城と考えていたこと
- 父・信秀以来、籠城戦の経験がなく、信長は籠城しても運は開けないと考えた
- この当時、外交的には孤立しており、後巻き(後詰)できる味方がどこにもいない
と分析されています。
さらに、善照寺砦から中島砦へ移動して今川軍に臨もうとしたときにも、老臣らは必死に信長を止めます。
その理由は、中島砦までの道が深田で進みづらいこと、そして敵方から見方が少ないことが見通せてしまうこと、の2点でした。
しかし、老臣らの反対を押し切って移動し、今川軍に挑んだことで、桶狭間の戦いで勝利を収めるのです。
今川義元を九星気学で見てみると・・・
今川義元は、永正16年(1519年)生れとされています。
誕生日は不明です。
そのため、今川義元は本命星しか推測できません。
1519年は四緑木星中宮年ですから、今川義元の本命星は四緑木星となります。
充実した枝葉を伸ばした樹木で、ととのった状態をあらわします。
四緑木星は風もあらわし、その働きは「縁」です。
四緑木星には、人の往来も活発で、世間の信用を得て、物事がすべて順調に運ぶという意味がありますが、手を拡げすぎると収拾がつかなくなる、破綻するという意味も含まれています。
尾張を領有し、三河支配を進めようとしたことは、まさに手を広げ過ぎたことだったのかもしれません。
桶狭間の戦い当日の九星盤にも現れた信長の勝利
織田信長の本命星は七赤金星、今川義元の本命星は四緑木星とわかったところで、桶狭間の戦い当日の九星盤をみてみましょう。
桶狭間の戦いが起こった1560年は八白土星中宮年、6月は七赤金星中宮月、12日も七赤金星中宮月でした。
信長は本命星が七赤金星ですから、6月12日は七赤金星のためにあるような一日でした。
しかも信長の傾斜宮(本命星と月命星から割り出します)は八白土星。
信長が清州城で、籠城ではなく出撃を決めたとみられる永禄3年5月18日(1560年6月11日)の日盤は、八白土星中宮でした。
つまり、八白土星中宮年の、八白土星中宮日に今川軍との直接対決を決めた信長は、七赤金星中宮月の七赤金星中宮日に今川軍を打ち破ったことになります。
九星盤を見る限り、信長の勝利は決まっていたようなものなのです。
桶狭間は信長にとって吉方位だった!
おまけに桶狭間方面は、信長にとって吉方位でもありました。
2日間で雌雄を決してしまった桶狭間の戦いですから、月盤で方位をみてみましょう。
本命星が七赤金星の信長にとって、吉方位となるのは、二黒土星・八白土星・六白金星・一白水星のいずれかの方位になります。
清州城からみて、最初に移動した善照寺砦は南東(巳)、中島砦も南東、桶狭間古戦場跡も南東に位置しています。
七赤金星中宮月(月盤と日盤も同じ!)の東南には六白金星が位置しており、信長は吉方位に向かって進軍したことがわかります。
六白金星は天をあらわし、宇宙を支配していると考えられています。
まさに天の助けがあって、信長は今川義元を打ち破ることができたことがわかります。
今川義元は本命殺の方位へ移動していた
一方の今川義元は四緑木星の生れです。
永禄3年(1560年)の年盤では、四緑木星は北にあり、本厄であることがわかります。
そして、月盤・日盤では、四緑木星は南西に位置しており、沓掛城から桶狭間に向かった今川義元は、自らの星である四緑木星方面に移動していました。
自分と同じ星の方位は、本命殺という大凶の方位です。
今川義元は、本厄の年に、本命殺の方位に移動することで、死ぬことになったのです。
ちなみに、信長の七赤金星は年盤では東南にあり、運気上昇中という年でした。
開運して勝利した織田信長
九星気学は、吉方位に移動したり、引っ越したりすることで開運できる占術です。
ここまで見てきた通り、織田信長は運気上昇中の年に、吉方位に移動することで運気をあげていったことがわかります。
歴史をこんな風に見てみると、さらに興味がわきますね。
織田信長軍団100人の武将 (新人物文庫) | ||||
|
もっと読みたい方は 開運ブログへ
メールアドレスをご登録いただいた方に、密教宿曜占星術の27宿の解説と、歴史上の人物や著名人の本命宿がわかる無料レポート(PDFファイル)をプレゼントしています。