祖父・徳川吉宗に寵愛された将軍
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
徳川将軍について調べていますが、10代目となる徳川家治は、徳川吉宗に愛されて育った将軍です。
学芸の才能に恵まれ、書画を得意としたとされ、「龍」と書いたときに、最後の点を打つ場所がなくなり、畳に点を打ったという逸話が残されています。
徳川家治について調べてみました。
徳川家治を九星気学で占ってみると?
■徳川家治(2-7-9)
徳川家治は、元文2年5月22日(1737年6月20日)生まれ。
本命星:二黒土星
月命星:七赤金星
傾斜宮:九紫火星
徳川家治は、本命星の二黒土星から、月命星の七赤金星にエネルギーが流れる相生の関係です。
二黒土星は耕された土であり、まじめで勤勉、受け身タイプが多い星であり、サポート役に徹することで、才能が開花します。
その二黒土星から七赤金星にエネルギーが流れているので、より現実的な利益を求める傾向が強いと言えそうです。
七赤金星は精錬された金属であり、お金を意味しています。
また、七赤金星には批判力が備わっており、言語能力が高い性質をもっており、斜めからモノをみて批判する力があります。
九紫火星は感覚的、芸術センスにすぐれています。
徳川家治が、書画の才能があったというのは、この九紫火星によるものでしょう。
どちらかといえば、理性よりも本能的な行動が優先される傾向が見られるので、田沼意次を老中に任命してからは、自分の趣味に没頭したというのも、うなづける話です。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【二黒土星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
徳川家治の運気を九星気学でみてみると
■1760年 将軍宣下
1760年は六白金星中宮年で、二黒土星は北にあり、本厄です。
二黒土星の定位には三碧木星が回座し、開拓・奮起の暗示があります。
徳川家治は、父・家重の隠居により、将軍宣下を受けて10代将軍となります。
また、父・家重の遺言に従い、田沼意次を側用人とし、老中・松平武元らと共に政治に励みます。
■1779年 世子・徳川家基、老中・松平武元が死去
1779年は五黄土星中宮年で、二黒土星は定位に戻って南西にあり、後厄です。
定位に戻ったときは、新しいステージに移行するとき。
徳川家治は、家治の世子・徳川家基が急死。
さらに、老中・松平武元が亡くなると、田沼意次を老中に任命し、幕政を任せるようになります。
■1781年 一橋家の長男・豊千代を養子にする
1781年は三碧木星中宮年で、二黒土星は東南にあり、運気は旺盛です。
二黒土星の定位には九紫火星が回座し、良くも悪くも注目されるときです。
徳川家治は、一橋家の長男・豊千代(後の徳川家斉)を自分の養子とします。
■1786年9月17日 死去
徳川家治は、脚気による心不全で、1786年9月17日に亡くなります。
この日の九星盤をみると、年盤と日盤はどちらも同じ七赤金星中宮であり、二黒土星は南にあり、前厄です。
前厄のときは陽の当たるときであり、なにかと目立つときです。
また、「離」の作用があり、死別・別離・転居などの暗示があります。
二黒土星の定位には四緑木星が回座し、遠くの暗示があります。
年盤の二黒土星には、月盤の五黄土星が回座し五黄殺なので、病状の悪化が読み取れます。
最悪の運気とは言えませんが、普段の食生活や行動が、大きく影響していたのではないでしょうか。
徳川家治を宿曜占星術で占ってみると?
■徳川家治【奎宿】
宿曜占星術では、徳川家治は奎宿の生まれです。
奎宿の「奎」とは、天子の御筆をあらわし、文章をつかさどる星です。
奎宿は、古来より「貴人の星」とされていて、話し方に、どことなくおっとりしたところがあり、それが一種の気品となっています。
また、思いやりがあり、敬愛されるお坊ちゃんでもあります。
徳川家治は、起床時間よりも早く目が覚めると、音を立てないように行ったり来たりして、起床時間になるまでひたすら待っていたり、厠に行く時も、当番の御小納戸役を起こさないように廊下を歩いたという逸話が残されています。
まさに、思いやりがあるお坊ちゃんだったようです。
奎宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「奎宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」をお読みになってください。
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