「水戸黄門」
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
「水戸黄門」として、日本人なら誰でも知っている徳川光圀。
徳川家康の孫であり、『大日本史』を編纂したことでも知られています。
幕末の尊王攘夷思想は、徳川光圀によるものという評価もあります。
徳川光圀について調べてみました。
|
徳川光圀を九星気学でみると?
■徳川光圀(3-9-8)
徳川光圀は、1628年7月11日生まれ。
本命星:三碧木星
月命星:九紫火星
傾斜宮:八白土星
徳川光圀は、本命星の三碧木星から月命星の九紫火星へ、月命星の九紫火星から傾斜宮の八白土星へとエネルギーが流れる相生の関係です。
三碧木星は音であり、振動を表しています。
そのため、三碧木星生まれには言語能力の高さ、声の良さなどの資質を持った人が多いのですが、言葉で失敗しやすい傾向もあります。
その三碧木星から九紫火星にエネルギーが流れているので、九紫火星が持つ先進性や、豊富なアイデアに火がつきます。
そして、九紫火星から八白土星へとエネルギーが流れているので、自分がやりたいこと・信じていることは、どんなに困難な状況にあっても達成しようと努力します。
また、三碧木星には白黒つけたい気持ちが強いので、態度は明快です。
この星回りの人は、表面的にはおしゃべり上手な社交家にみえても、実は頑固一徹な人という傾向が見られます。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
↓
⇒ 【三碧木星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
徳川光圀の運気を九星気学でみると?
■1657年 『大日本史』編纂に着手
■1661年 水戸藩第2代藩主
1661年は六白金星中宮年で、三碧木星は南西にあり後厄、そして歳破がついています。
三碧木星の定位には四緑木星が回座し、知名度アップの暗示があります。
徳川光圀は、水戸藩28万石の第2代藩主となります。
|
■1665年 朱舜水を招く
1665年は二黒土星中宮年で、三碧木星は北西にあり、実をつけるときです。
三碧木星の定位には九紫火星が回座し、栄誉と注目の暗示があります。
徳川光圀は、明の遺臣・朱舜水を招きます。
朱舜水の学問は、朱子学と陽明学の中間にあるとされ、実理・実行・実用・実効を重んじたことから、水戸学へ思想的影響を与えたとされます。
|
■1690年 隠居
1690年は四緑木星中宮年で、三碧木星は東南にあり、運気は旺盛です。
三碧木星の定位には二黒土星が回座し、受け身の暗示があります。
徳川光圀は、隠居が許されます。
|
■1693年 「八幡改め」
1693年は一白水星中宮年で、三碧木星は西にあり収穫のときですが、定位対冲です。
定位対冲のときは、運命の歯車が大きく動くときです。
徳川光圀は、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行います。
藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更されます。
|
■1696年 出家
1696年は七赤金星中宮年で、三碧木星は北にあり、本厄です。
三碧木星の定位には五黄土星が回座し、何事も極端になりやすく、五黄殺(自滅)の暗示があります。
徳川光圀は、亡妻・泰姫の命日に出家します。
|
■1701年1月14日 死去
1701年1月14日、徳川光圀は、以前から食欲不振を訴えていたことから、胃癌や食道癌で死亡したと考えられています。
この日の九星盤をみると、年盤・月盤がどちらも三碧木星中宮であり、「命厄」です。
体調悪化が激しく、悪性腫瘍の暗示がありますから、がんで亡くなったという推定は間違っていないようです。
享年74でした。
徳川光圀を宿曜占星術でみると?
■徳川光圀【心宿】
宿曜占星術では、徳川光圀は心宿の生まれです。
心宿は、目上にも年下からもウケが良く、慕われ愛される本命宿です。
心宿さんは、頭の回転がよく、他人の心をつかんで対処していくという才能があります。
また、自分の演出が巧みで、演技者、役者として優れた才能をもっています。
徳川光圀は、火曜生まれの心宿さんなので、調子に乗りやすい人だったようです。
三碧木星生まれでもあるので、本人に悪意はなくても、争い事や揉め事に発展しやすい傾向があります。
心宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「心宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」を読みになってください。
↓
自分のことを知りたい!今の悩みやトラブルはどうなるのか?ということを知りたい方は、お問合せからご連絡ください。
↓
鑑定のご依頼をお待ちしております。
また、LINEのお友達に「霊符ワークス(https://lin.ee/jUg7TVJ)」を登録していただくと、大変お得になります。
もっと読みたい方は 開運ブログへ