最後の征夷大将軍
こんにちは、生方吉子(うぶかたよしこ)です。
徳川慶喜ほど、評価の分かれる人物はいないと言われます。
徳川将軍のなかで一白水星生まれは、徳川吉宗以降に4人出現しており、吉宗、家重、家茂、慶喜と続きます。
一白水星は、厳しい運命を、企画力や創造力によって切り開いていくという星です。
難局続きの徳川幕府の後半に、この一白水星生まれが集中していることには、なにか意味があるのかもしれません。
徳川慶喜を九星気学で占ってみると?
■徳川慶喜(1-9-6)
徳川慶喜は、天保8年9月29日(1837年10月28日)生まれ。
本命星:一白水星
月命星:九紫火星
傾斜宮:六白金星
徳川慶喜は、本命星の一白水星と月命星の九紫火星は、水剋火(水は火を消す)の相剋の関係です。
一白水星は水であり、柔軟性がありますが、人間関係は広くなく、どちらかといえば秘密主義です。
また、一白水星は思索的であり、企画力や創造力に優れていますので、よく考えて行動しますが、この星回りの場合は、直感的な言動として現れやすい傾向があります。
理性ではダメとわかっていても、つい本能が行動させてしまうようなところがあるタイプです。
九紫火星は火であり、アイデア豊富で、美的センスに優れていますが、興味のある無しによって極端になりがち。
六白金星は天であり、理想主義者です。
この六白金星から一白水星にエネルギーが流れているので、自分が掲げる理想を実行しようとするのが、この星回りの性質といえるでしょう。
九星気学で性格や運気を知りたい方は、「九星気学 本命星・月命星・傾斜宮でみる運勢 歴史上の人物と著名人」をお読みになってください。
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⇒ 【一白水星】最も運気が強いのは?本命星・月命星・傾斜宮の組合せは?
徳川慶喜の運気を九星気学でみてみると
■1847年 一橋家を相続
1847年は九紫火星中宮年で、一白水星は北西にあり、実をつけるときですが、一白水星の定位には五黄土星が回座し、五黄殺(自滅)の暗示があります。
徳川慶喜は10歳ですから、月命星の九紫火星で運気を読むと、花が咲くときであり、知名度アップの暗示があります。
徳川慶喜にとって、一橋家を相続したことは、良いタイミングであったようです。
■1862年 将軍後見職
1862年は三碧木星中宮年で、一白水星は東に出て、運気は上昇に転じます。
一白水星の定位には八白土星が回座し、変化変動の暗示があります。
徳川慶喜は、島津久光らの幕府人事への介入によって、将軍後見職となります。
徳川慶喜と松平春嶽は、文久の改革といわれる、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行いました。
■1864年 禁門の変
1864年は一白水星中宮年で、花が咲くときです。
一白水星の定位には六白金星が回座し、目上のサポートがある暗示があります。
徳川慶喜が、将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督に就任すると、禁門の変において御所守備軍を自ら指揮します。
この禁門の変を機に、徳川慶喜は、会津藩・桑名藩らとの提携を本格化させます。
■1866年 将軍宣下
1866年は八白土星中宮年で、一白水星は西にあり、収穫のときです。
一白水星の定位には四緑木星が回座し、知名度アップの暗示があります。
徳川慶喜は、徳川家茂が死去すると、次期将軍に推されますが、半年間も将軍職就任は拒み続けた末に、ようやく将軍宣下を受けます。
■1867年 大政奉還
1867年は七赤金星中宮年で、一白水星は北東にあり、変化変動です。
一白水星の定位には三碧木星が回座し、開拓・奮起の暗示があります。
徳川慶喜は、大政奉還によって、政治体制を再編しようと考えていたようです。
■1868年1月30日 鳥羽・伏見の戦いから離脱
徳川慶喜は、1868年1月27日 にはじまった鳥羽・伏見の戦いから、1868年1月30日に、側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らをつれて、開陽丸で江戸に退却します。
この日の九星盤をみてみましょう。
年盤と日盤はどちらも七赤金星中宮で、一白水星は北東にあり変化変動です。
年盤の一白水星には、月盤の九紫火星が回座し、良くも悪くも注目される暗示があります。
しかし、それは困難な状況に陥るとの暗示もあります。
また、精神をあらわす月命星の九紫火星は西にあり、年盤・日盤ともに暗剣殺です。
他動的な理由によって凶運を呼び込むのが暗剣殺なので、このときの徳川慶喜の思考は、いつものような切れ味ではなかったかもしれません。
■1868年7月 徳川政権に幕
1868年7月に、徳川家が駿府に移封され、徳川慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎します。
これにより、徳川政権は幕を閉じました。
このときの九星盤をみると、年盤では一白水星は南にあり前厄です。
前厄のときは陽の当たるときであり、良くも悪くも注目されるときです。
また、定位対冲であり、運命の歯車が大きく動くときです。
南に本命星が回座したときは、離れるという作用が起こりやすいので、将軍職から離れるのも、当然といえば当然の運気です。
年盤の一白水星には、月盤の四緑木星が回座し、遠方・解散の暗示もあります。
月盤の一白水星は北西にあり、年盤の七赤金星に回座し、暗剣殺の影響も受けていますから、徳川慶喜が徳川家に幕を下ろしたわけではなく、歴史の必然だったのではないでしょうか。
■1902年 貴族院議員となる
1902年は八白土星中宮年で、一白水星は西にあり、収穫のときです。
一白水星の定位には四緑木星が回座し、信用の暗示があります。
徳川慶喜は、公爵に叙せられ、貴族院議員となります。
■1913年11月22日 死去
徳川慶喜は、1913年11月22日に亡くなります。
この日の九星盤をみると、年盤では一白水星は南にあり前厄、そして定位対冲です。
また、南にあるときは「離」の作用が働くのですが、年盤の一白水星には、月盤の九紫火星が回座し、こちらも「離」の作用があることを暗示しています。
しかも、年盤と月盤の一白水星は対冲していますから、運気的には波乱が起こりやすいといえます。
徳川家康は感冒で亡くなったそうですが、「離」の作用が重なっているので、天寿を全うしたと言えるのではないでしょうか。
徳川慶喜を宿曜占星術で占ってみると?
■徳川慶喜【房宿】
宿曜占星術では、徳川慶喜は房宿の生まれです。
房宿は、財運に恵まれた本命宿です。
房宿さんは、直観力があり、カリスマ性を備えている人も多く、家風を隆盛に導きますが、他人の痛みに鈍感なところがあり、無用の敵を作りやすいところがあります。
また、自己犠牲や奉仕の精神が薄いので、自分が損することは絶対に行いません。
このような資質からか、房宿さんは、思わぬ災難や悲劇に見舞われることも。
徳川慶喜の評価が分かれるのは、このような房宿さんの性質によるものなのかもしれません。
房宿さんの性格や運気、相性をもっと知りたい方は「房宿: 宿曜占星術と九星気学・姓名でみる運気」をお読みになってください。
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